王羲之の書の探究学習 集王聖教序の臨書

 高校2年生の行書の学習では、王羲之の書の探究学習として「集王聖教序(しゅうおう しょうぎょうじょ)」の臨書学習を扱っています。第1次として6月に半紙の臨書学習を、9月の授業では第2次として半切の臨書学習を進めています。

 王羲之の書の探究学習として、集王聖教序の半切臨書学習の取組みを紹介します。






1 集王聖教序(しゅうおう しょうぎょうじょ) とは



 太宗の聖教序と高宗の記とを刻した褚遂良の「雁塔聖教序」に、太宗の『答勅』、高宗の『牋答』とを添え、さらに『般若波羅密多心経』をも刻したのが、この碑です。


 文字は、弘福寺(神龍元年(705) に興福寺と改名)の僧懐仁が、当時最も流行した東晋の王羲之の書を集字して刻しました。


 懐仁は、宮中に蔵せられている王羲之の筆跡から一字一字を集め、無い字は偏旁を組み合わせてつくりあげました。


 このことから、この碑は集字碑の先駆とされています。


 また、貞観時代の宮中の王書のコレクションの豊富さを考えさせられ、その意味からも貴重な資料といえます。


 ただ問題なのは、序や記を賜った貞観22年(648)から、実に25年後の咸亨3年(672)12月8日に建てられている点です。

 一説では「現存の碑は原石ではない」とも言われています。


 この碑を見ると、碑陰には何も刻されていません。聖教序は他に《雁塔聖教序》(永徽4年 653)や《同州聖教序》・《聖教序并記》(顕慶2年 657)などがあることからしても、疑問が残ります。




◆  探究資料 配信スライド   臨書課題と写実的臨書参考手本・読み方と意味




◆  探究資料  原文・意訳




2 集王聖教序の特長


 字体は行書を主としていますが、集字のためか、時には楷書も交じり、草書も多少含まれています。


 線の太さも、太いもの、細いものがあり、文字の大小も不揃いです。筆勢も、速く鋭いもの、穏やかで温雅なものがあって、必ずしも統一されたものがあるとは言えません。

 しかし、行間の取り方、全体の章法によって、おおむね一気呵成になされたように見えます。


 鐫刻したのは朱靜藏で、その刻し方を見ると、鋭利な刃物で一点一画を一挙に削り取るように刻されています。1300年の時を越え、当時そのままに保存されています。

 そうした絶技も手伝ってか、王書の風神をよく伝えるものとして、歴代の讃歎を受け、法書第一の石刻とされています。




◆ 探究資料  集王聖教序の特色


3 王羲之の名品について


 王羲之「蘭亭序」はたいへん有名ですが,搨摹,臨摹,翻刻を重ねて何百種かのものができていますnので,これによって王羲之の真跡をうかがうのは相当に困難と考えられています。


それよりも,唐初に王羲之の行書を拾い集めて碑に刻した《集王聖教序》の方が信用できると言われています。


 王羲之の書では、草書としては,尺牘二十数種を集めた「十七帖」,楷書としては,「楽毅論(がくきろん)」などの細楷が法帖として伝わっています。





4「集字」とは

 

 ある人の書跡や碑帖または古版本などから必要な字を双鉤(そうこう)などの方法で原跡のまま集め,文章や語句をそれで構成すること(双鉤塡墨(そうこうてんぼく))と言います。

 古来,王羲之の書跡を集め,唐太宗の文を石に刻した《集王聖教序記》は集字碑の代表として有名です。




5 西遊記と三蔵法師



◆ 探究資料  三蔵法師の旅




『西遊記』は唐の玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)が、孫悟空(そんごくう)、猪八戒(ちょはっかい)、沙悟浄(さごじょう)をお供に、さまざまの苦難にあいながら天竺(インド)へ行って仏典を持って帰る話です。 子供のころ誰にも親しまれた冒険物語です。 仏教には3200もの経典があるといわれますが、その中でもっとも有名なお経が「般若心経」です。


  色即是空 空即是色・・・ギャーテーギャーテー ハラソーギャーテー


 一度くらいは聞かれた方もおられることでしょう。 この般若心経は、紀元1~2世紀の頃インドで生まれました。 ですから、原典は古代インド語のサンスクリット、すなわち梵語です。 

 この梵語のお経を漢字に翻訳したのが、中国の僧 玄奘三蔵です。


 玄奘三蔵(602~664)、色白で美男子で秀才。 13才で出家し、仏教を学びましたがあきたらず、国禁を犯して28才でインド留学へと向かいます。 

 命がけの求法の旅、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、パミール高原、カラコルム峠を越え、やっとの思いでインドの仏教大学ナーランダに到着。 長安出発のとき40人の同行者は、途中の猛獣・山崩れ・急流などで死者続出し、2年後には玄奘ただ1人という苛酷な旅でした。


 偉人といわれる人には色々な伝説が残っていますが、玄奘にもいくつかあります。 

 旅の始めの頃、ある寺にいた時インドから来た老僧がハンセン病で苦しんでいました。 玄奘の弟子たちは皆逃げだし、老僧1人で病床に伏せていました。 そこで玄奘は手厚く看病し、薬をすすめ食事一切の世話をします。 このインド僧は感謝して1巻の経典を授けます。 玄奘はこの経典を道中のお守りとしました。 玄奘帰国後この経典を漢訳したのが現在の「般若心経」です。

 時を経て、その経典が敦煌の石室から発見され、その序文に次のような伝説が記されていました。 

 インド僧に会ったのちに、玄奘が中インドのナーランダ寺に着いたら、なんとその病僧がそこにいるではないですか。 

 驚く玄奘にその僧は、~われ観世音菩薩なり~、と告げて空に消え去りました。 

 今でも般若心経が、旅行のお守りのお経ともいわれる所以です。


 三蔵とは、仏教の聖典である経蔵(釈尊の教えである経を集めたもの)、律蔵(仏教徒が守るべき戒律を集めたもの)、論蔵(経を注釈したもの)の三つです。 

 この三蔵に精通しているすぐれた僧を三蔵法師と言います。 

 ですから三蔵法師は他にもいるのですが、一般に三蔵法師といえば玄奘三蔵を指すように、玄奘は中国仏教の歴史の中でもっとも代表的な翻訳僧です。


 あしかけ17年の旅を終え、多くの経典を持ちかえった玄奘は、皇帝の庇護のもと多数の仏典を翻訳しました。 

 63才で亡くなられた時、天地は色を変じ、鳥獣は哀しげに鳴いたといい、遺体は77日経っても少しも変わらず、異臭もしなかったということです。 

 葬儀には、送る人100余万人、その夜墓前に泊まる人3万余人ともいわれています。 玄奘三蔵法師は、人格高潔、学力(語学力)抜群、頑健な身体と熱き情熱、不撓不屈(ふとうふくつ)の精神の持主であり、弥勒・観世音菩薩と般若心経への厚き信仰に生きた偉大な僧でありました。



 



◆ 半切の臨書学習では、墨すり機を使用して、磨墨した墨液を使用し学習にのぞみます。


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