卒業生来校 中学生条幅作品制作
7月26日(金)本日の書道部の活動は卒業生が来校し、先輩と一緒の活動となりました。
OGは趙之謙の行筆作品と北魏の楷書の臨書を、中学生は条幅作品制作の最初の取組みを、
高校生は秋の千葉県高等学校総合文化祭への出品作品の制作を行いました。
中学生条幅作品制作
中学生の条幅課題
OG(先輩)の臨書学習
昨年度2018年聖徳祭書道部作品展 (過去の学校ホームページの掲載画像)
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昨年度の校内展での先輩の作品
名筆書家紹介
【趙之謙 (ちょうしけん)1829年〜1884年 】
趙之謙は、中国清の末の時代の書家、画家、篆刻家。
近代芸術家の呉昌碩、斉白石など、後世に大きな影響を与えたと言わています。
「画」は、水墨画の伝統を踏まえた画と書を一体と見なし、独自の画風を確立しました。
「書」は、金石学※1から書の古法を会得し、篆書・隷書に優れ、そこに草書法を加えた斬新な書表現を作り出しました。
「篆刻」は、金石文を深く研究し、秦・漢の篆書だけでなく、魏晋南北朝の時代まで取り入れ、篆刻の芸術に新しい様式を作ることとなります。
(※1 金石学(きんせきがく)は、金石学の創始者てある北宋の欧陽脩が、金石(古代の金属器・石刻の上に刻まれた銘文)や石刻の拓本を蒐集して研究したものがはじまり。)
紹興(浙江)の裕福な商家に生まれた趙之謙(ちょうしけん)は、少年の頃に家産が傾き、貧困を余儀なくされました。
趙之謙は書画・篆刻で生計を立てながら勉学に励み、31歳で郷試(きょうし、科挙の1次試験)に第3席で及第します。
ところが、この頃から太平天国の乱は熾烈(しれつ)を極め、趙之謙は温州(浙江)や福州(福建)に避難するものの、紹興の自宅は焼失、妻と娘も世を去ります。
家族を失った絶望の果てに、趙之謙は号を「悲盦(ひあん)」とあらためます。
時に34歳のことでした。
翌年、趙之謙は会試(かいし、科挙の2次試験)を受験するため北京に赴き、そこで胡澍(こじゅ、1825~72)・沈樹鏞(しんじゅよう、1832~73)・魏錫曾(ぎせきそう、1828~1881)ら同好の士を得て、当時脚光を浴びていた金石学に没頭します。
しかし、会試にはことごとく失敗、ついに高級官僚の途を断念します。44歳の時、地方官として江西に赴任しますが、在職中に過労がたたり、56歳の生涯を閉じました。
趙之謙は、北魏時代(386‐534)の書に触発され、独自の解釈によって「北魏書」とよばれる新しい表現をしました。
これによって、書の「碑学派」の中心的な人物として清代後期に活躍し、その取組みは近代日本の書に大きな影響をもたらしました。
趙之謙 人物像
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